家族生活の容れ物として家
家をつくるというのは単に部屋をつくることではなく、家族生活の容れ物をつくることです。住まいとは、家族の生活全体の容れ物であって、決して個人の容れ物ではありません。個人の容れ物ならば、ホテルの個室で十分です。ですから、当然、「家=住まい」というものは、家族全員のコンセンサスを得て考えるべきものだと考えます。
それは同時に、主人には主人の、奥さんには奥さんの、また子どもたちは子どもたちなりの住まいに対する考えを持つことになります。それは、その家族がどのような生活をするのか、ということを考えることでもあります。自分たちの生活のポリシーを明確にすることが住まいづくりの出発点ということが出来ます。
今日の便利は明日の不便
「消費は美徳」という時代がかつてありました。
しかし、それは現在、もはや通用しなってきています。それを無理に通用させようとしているのは、住む側ではなく、もっぱら住宅産業の側であると考えます。上は大手企業者から下は○○工務店の経営者まで、彼らは「家は消耗品である」「マンションは買い替えの時代」などと喧伝してさえいます。
また、便利だとか安いということが現在の家のターゲットになっているように感じられます。それらを耳にする度に「今日の便利は明日の不便」と心のなかで連呼してしまいます。昨日便利だったものが、今日すでに不便になっています。そんなものが我々の周りに溢れているように思われます。
「手入れ」は家も人間関係も同じです
住まいというものは、常々に維持・管理しなくてはなりません。
出来上がってしまったからといってほったらかしにして管理しなかったならば、住まいは必ず壊れてしまいます。結婚したらそれでよし、そのあとお互いを思いやって手入れをしなかったら、夫婦は崩壊します。それと同じように、あらゆる意味で「手入れ=メンテナンス(リフォーム)」をしなかったら、住まいは崩壊するということになります。
家族が、夫婦2人から子どもが生まれ、育ち、巣立っていくように、家族の生活を包む容れ物である住まいも、日々成長・変化を遂げ、日々新しくなっていかなければ壊れてしまいます。そういった家は、はじめから使い捨てのものに類似しているようにさえ感じます。
木造だからダメ、鉄筋だからもつ、などということは固定した考え方で、どちらでも、「よいものは良い」のです。桂離宮は300年、法隆寺は1400年ももっています。鉄筋であったとしても、とっくに取り壊された建物はいくらでもあります。
そういったはじめからの使い捨て的なものはつくらないほうがいいと考えます。住まいが使い捨てのものになるということは、そこに住まう人自身が入れ物ごと使い捨てとなってしまうことにもなります。便利だとか安いということばかり追求していると、道端に打ち捨てられた家電製品のように、自分自身も使い捨て化してしまうのではないでしょうか。
ライフスタイルの変化に合わせて、メンテナンスやリフォームを考えることも必要です。
この頃は、銀行やヤミ金までが建築資金を貸したがっています。しかし、債務というのは住宅が使い捨て化して朽ちていくようには減価償却はしてくれません。
鉄筋コンクリートならぬ借金コンクリートの梁で自らを苦しめないよう、心がけていきたいものです。